ドン・ボスコってどんな人?

1841年12月8日無原罪の聖母の祝日に司祭になったばかりのドン・ボスコは、最初に出稼ぎの少年と出会いました。その少年の名は、バルトロメオ・ガレッリでした。その当時のイタリアは、貧しい少年たちの働くところも住む家もなく生活に困っていました。バルトロメオ・ガレッリも行くあてもなく、ドン・ボスコがミサを立てようとした香部屋に入り込んだのです。

その時、香部屋係は、バルトロメオ・ガレッリを怒鳴って追い出そうとしました。ドン・ボスコは、香部屋係に「この少年は、私の友達だ。」と言い、少年と仲良しになり、日曜日は教会へ来るように勧めました。バルトロメオ・ガレッリは、日曜日に友達を連れて教会を訪ねました。これがドン・ボスコの青少年教育(オラトリオ)の始まりとなりました。その後ドン・ボスコを慕って少年の数は日ごとに増えていきました。

ドン・ボスコは、どんな人生を歩んだの?

ドン・ボスコは、いつどこで生まれたの?

1815年8月16日、北イタリアのトリノのはずれ、ベッキ村で生まれ、ヨハネ・メルキオール・ボスコと名付けられました。父フランチェスコ、母マルゲリータとの間に末っ子として生まれました。7つ年上の長男アントニオは、フランチェスコの先妻の子で、2つ年上の兄ヨゼフとヨハネはマルゲリータの子どもでした。家は、農家で貧しい暮らしをしていましたが、毎日喜びでいっぱいの家庭でした。

ヨハネのお父さんは、どんな人?

父フランチェスコは、貧しい農夫でしたがヨハネが2歳の時病気で亡くなりました。

ヨハネのお母さんは、どんな人?

父フランチェスコが亡くなった後、母マルゲリータは、一家の柱として子どもの教育、家事、畑仕事などいろいろな仕事をしました。子どもたちも力を合わせてお母さんを助けました。母マルゲリータは、特に神様のことをたくさん教えました。

幼い頃のヨハネは、どんな子?

ヨハネは、カステルヌォヴォの市場に行くことが大好きでした。市場では、旅芸人たちが手品や曲芸をやっていました。その芸を覚えて友達を喜ばせることが大好きでした。芸を披露した後には、見ていた人たちに神様のことをお話したり、いっしょにお祈りをしました。

ヨハネの初聖体はいくつのとき?

ヨハネは、1826年3月26日の復活祭の時、カステルヌォヴォの教会で初聖体を受けました。
その時10歳でした。

ヨハネは、どこで働いたの?

ヨハネは、家から遠く離れたモーリアさんの家で働きました。仕事は、牛の世話や草刈りでした。モーリアさんは、ヨハネを大変かわいがりました。モーリアさんの家で過ごす間は、近所の子どもたちに神様のことを聞かれることがたくさんありました。

神父様になるきっかけは?

ヨハネは、カロッソ神父様と出会い、とてもかわいがっていただきました。ヨハネもカロッソ神父様を尊敬し、将来神父になる決意を固めました。しかし、その1年後カロッソ神父様は、天国に逝ってしまいました。

神父様になるためにどんな勉強をしたの?

ヨハネは、神父になるためにカステルヌォヴォの学校まで毎日10キロの道を歩いて通いました。学校の友達はみんな年下でヨハネのことをからかいました。また、学校の先生からも苦しめられました。ヨハネが特に困ったのは、お金でした。

学校に行くお金のためにどんなことをしたの?

ヨハネは、お金を稼ぐために洋服の仕立て、靴作り、鍛冶屋などいろいろな仕事をしました。それでもいつも神様に祈ることを忘れませんでした。

学校での様子は、どうだったの?

ヨハネは、まじめで勉強熱心で成績は良く、友達からも尊敬されるようになりました。
友達はヨハネのことが大好きで、ヨハネに勉強を教えてもらうこともありました。遊びのときも、みんなで楽しく過ごすことができました。20歳になったヨハネは、優秀な成績で卒業し、神学校に入学しました。毎週木曜日は、「喜びの会」の友達と会うことになり、お祈りも欠かさず行っていました。

ヨハネは、いつ神父になったの?

ヨハネは、1841年6月5日に神父になりました。「ひとつの願いは、謙虚で喜びにあふれた神のしもべになることです。」と祈りました。母マルゲリータは、とても喜びました。そして、ヨハネは神父になり、「ドン・ボスコ」と呼ばれるようになりました。
※「ドン」とはイタリア語で神父という意味

ドン・ボスコは、神父になってどのように働いたの?

ドン・ボスコは、神父になって3年間はトリノの教会で、カファッソ神父から司祭としてのさまざまな仕事を教えてもらいました。その頃イタリアでは、多くの子どもたちが貧しい生活を送っていました。ドン・ボスコは、子どもたちの様子を見て悲しみ、「何とかしなければいけない。」といつも思っていました。そこでドン・ボスコは、子どもたちに必要な教育を与えることが大切だと思うようになりました。時には、犯罪を犯した少年たちが収容されている刑務所にも出向き、少年たちを励ましてきました。貧しい子どもたちを教育する学校が必要であると思いました。

ドン・ボスコは、どこにオラトリオ(学校)をつくったの?

ドン・ボスコは、トリノ市に土地を見つけ少年たちと聖堂を造りました。その後、家付きの土地を買い、少年たちの住む場所として寮も造りました。少年の中にはバルトロメオ・ガレッリもいました。ドン・ボスコは、子どもたちのために一生懸命働きましたが、病気になってしまいました。子どもたちは、とても心配してみんなで早く快復するように祈りました。母マルゲリータの看病のおかげで病気から快復することができました。その時ドン・ボスコは、自分の一生を子どもたちにささげる決心をしました。これが「オラトリオ」という教育事業の始まりとなりました。 

サレジオ会は、いつできたの?

1854年1月26日。ドン・ボスコは少年たちを集めて「助けが必要な子どもたちが何千人もいるのです。聖母マリアの助けによって彼らのために家や教会、学校を建てましょう。この国だけでなく、外国にも!」「聖母はわたしたちに、聖フランシスコ・サレジオのやさしさにならって、サレジオ会と名づけましょう。」と話されました。

マリア・マザレロとどのようにして力を合わせるようになったの?

ドン・ボスコは、マリア・マザレロと出会いました。ドン・ボスコは、マリア・マザレロにモルネーゼ村で洋裁を習っていた少女たちにもシスターになることを勧めました。そして、1872年サレジオ会の姉妹会として女子修道会を設立し「扶助者聖母会(サレジアン・シスターズ)」と名づけました。

サレジオ会は、外国への宣教をどのようにおこなったの?

ドン・ボスコは1875年、司祭を外国への宣教師としてアルゼンチンへ送りました。これがサレジオ会の初めての宣教活動でした。

ドン・ボスコは、いつ天国にいったの?

ドン・ボスコは、働きすぎて体調を悪くしてしまいました。そして、ベッドから起き上がることもできなくなってしまいました。ドン・ボスコは、神父たちに言いました。「イエス様に会うときが来たようです。子どもたちを大切にしなさい。彼らはイエスとマリアの喜びなのです。」1888年1月31日、天国のイエス様のもとに逝かれました。その後ドン・ボスコの偉業が認められ、1934年に聖人とされました。今も特に助けを必要としている若者や子どものために、祈ってくれています。